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広島地方裁判所呉支部 昭和36年(わ)271号 判決

被告人 長見弥都徳 外二名

主文

被告人等はいずれも無罪。

理由

第一公訴事実の要旨

被告人長見弥都徳は昭和三一年一二月より昭和三四年七月まで呉市警固屋通り九丁目一番地、船舶修理ならびに建造業、広洋興業株式会社(昭和三五年七月一日社名を警固屋船渠株式会社と変更した)の代表取締役会長、被告人松浦義照は昭和三〇年二月より同三四年七月まで同社代表取締役社長、被告人宮地退助は昭和三一年七月頃より同三四年六月まで神戸市生田区海岸通り三丁目二番地、海運業福本商船株式会社の海務課長であつたものであるところ、昭和三三年一一月六日北海道留萠沖で福本商船株式会社所有の糸崎丸(総屯数一、二五一屯余)が海難事故により船底に著しい損傷を受けたため、これが復旧工事について同月二四日、呉市元町七〇番地五月荘において、糸崎丸に対する船舶保険契約により、右工事費填補の責に任ずる日新火災海上保険株式会社と福本商船株式会社との間に、保険工事費を三、四〇〇万円と見積り工事完了後同金額を支払うべき旨の仮協定がなされ、これと同時に広洋興業株式会社と福本商船株式会社との間に、右見積額と同額の三、四〇〇万円で右工事を施工完了する旨の工事請負契約が締結されたが、被告人長見弥都徳、同松浦義照は糸崎丸の右海難損傷後間もなくこれを知つて、広洋興業株式会社がその復旧工事を施工するに当り同社の福本商船株式会社に対し有する貸付金一、一〇〇万円を右工事請負代金から天引確保することを申合せ、これに基き被告人長見弥都徳、同松浦義照、同宮地退助は広洋興業株式会社専務取締役小河義郎、同社営業部長多川弘、同技術部長佐藤実、同社長付保険工事担当主務者藤井隆等と順次共謀のうえ、糸崎丸の右海難損傷復旧工事を請負契約通り施工することなく広範囲に亘つて手抜をなし、しかも請負契約どおり全工事を施工完成したもののように装つて保険金を騙取しようと企て、同月二五日頃より手抜をすべき工事個所を決定する等して請負契約による工事量の約二分の一程度の工事実行計画をたてて施工し、同年一二月二〇日頃、広洋興業株式会社事務所その他において、真実は右工事実行計画に基き約一、七〇〇万円相当の手抜工事を行い、請負契約通り全工事を施工完了していないのに、あたかも請負契約どおり施工完了したものの如く記載し、被告人宮地退助の認証した虚偽の工事落成書を作成し、その頃被告人松浦義照名義をもつて東京都千代田区大手町一丁目六番地、日新火災海上保険会社に対し、予て広洋興業株式会社が福本商船株式会社代表取締役社長福本邦男より入手した、同社が右海難損傷復旧工事完了後、日新火災海上保険株式会社から受領すべき保険金受領の権限を被告人松浦義照に委任する旨の委任状、右虚偽の工事落成書その他海難損傷復旧工事費請求所要書類等を同社神戸支店を経由して提出し、もつて保険金三、四〇〇万円の請求をなし日新火災海上保険株式会社係員をして右海難損傷復旧工事は請負契約どおり全工事を完了したものと誤信させ、よつて同社係員より同月三〇日に一、五〇〇万円昭和三四年二月三日に一、五八〇万三、八七五円を呉市本通八丁目一番地、三和銀行呉支店の広洋興業株式会社当座預金口座に振込送金を受けて、これを騙取したものである。

第二証拠によつて認定できる事実

被告人長見弥都徳は昭和三一年一二月より同三四年七月まで呉市警固屋通り九丁目一番地、船舶修理ならびに建造業、広洋興業株式会社(昭和三五年七月一日に社名を警固屋船渠株式会社と変更した)の代表取締役会長、被告人松浦義照は同三〇年二月より三四年七月まで同社代表取締役社長、被告人宮地退助は同三一年七月頃より三四年六月まで神戸市生田区海岸通り三丁目二番地、海運業福本商船株式会社の海務課長であつたところ、

右福本商船株式会社(代表取締役、福本邦男)は昭和三三年三月二〇日、同社所有の貨物船糸崎丸(一九一六年建造に係る鋼船、総噸数一、二五一噸余)を目的として神戸市生田区栄町通五丁目三番地、日新火災海上保険株式会社神戸支店(支店長井上貞治郎)との間に

保険期間は昭和三三年八月二〇日午後六時三〇分より同三四年八月二〇日まで

保険価額および保険金額は七、〇〇〇万円(全部保険)

填補の範囲は「普通保険約款、特別約款、修繕特別約款、保険価額増加特別約款、船費保険禁止約款、氷による損傷修理費除外約款、含水微粉礦石特別約款」による全損、救助費、共同海損、単独海損および四分の四衝突損害賠償金を填補する。

保険料は金四七八万四、五〇〇円で四回の分割払いなる約定で船舶海上保険契約を締結した。

ところが右保険期間中の昭和三三年一一月六日同船は北海道留萠沖において、保険事故たる擱坐によつて船底に損傷を被つたので、直ちに福本商船株式会社と日新保険株式会社との間で協議の結果、これを広洋興業株式会社で修繕することになり、とりあえず同船を広島市宇品町所在の宇品造船所船渠へ回航させ、同所において同年一一月二〇日、二一日の両日にわたり、船主側、保険会社側双方の係員が第三者たる日本保険料率算定会の専門技師をも参加させて、同船の損傷を実地検査したうえ、その復旧工事計画を検討協議した結果、同月二四日その修繕費を三、四〇〇万円とする旨の協定が成立した。

そこで福本商船株式会社は、右同日広洋興業株式会社に対し右修繕工事を代金三、四〇〇万円で請負わせ、同造船所は同年一二月二五日頃工事を完了したとして、これを福本商船株式会社に引渡し、同船はその頃中国海運局海事官の検査を受けたうえ、同月二七日頃就航した。

一方広洋興業株式会社は右請負工事を締結した際、福本商船株式会社から、工事の完了後に同社が日新火災海上保険株式会社より受領する前記修繕費三、四〇〇万円を右請負工事代金の支払分として代理受領する委任契約を取りつけていたので、同年一二月二五日頃同保険会社に対し、糸崎丸の保険工事が完了した旨記載した工事落成書、修繕費受領に関する委任状等を添付した糸崎丸海難損傷復旧工事費請求書を提出し、その結果同保険会社から右修繕費の支払として同月三〇日に一、五〇〇万円、翌三四年二月三日に一、五八〇万三、八七五円、合計三、〇八〇万三、八七五円(前記協定額三、四〇〇万円から糸崎丸の質権者に対する優先弁済金二〇〇万円および未経過保険料一一九万六、一二五円を控除した金額)を受領した。

なお糸崎丸の保険契約は、右保険期間の満了と同時に更に期間を一年、保険価額および保険金額を七、〇〇〇万円、保険料を六一六万七、〇〇〇円として更新されたが、その途中の昭和三五年六月一日正午をもつて解約された。

第三争点

検察官は右糸崎丸の損傷復旧費として協定された前記三、四〇〇万円は修繕費の見積金額にすぎず、これをもつて保険会社が支払うべき修繕費と同一視することはできない。修繕費は当該協定に係る修繕工事が全部完了して初めて確定するのであつて、それまでは工事計画を樹立した際に発見し得なかつた隠れた部位の損傷が工事の進捗途中で現われたり、あるいは工事期間中における材料費、労賃等の変動により、当初に協定した見積金額をもつて損傷復旧費とすることが相当でない場合が生ずるので、工事が全部完了して初めて修繕費が確定し、保険会社がこれを支払うのである。このことは契約の約款上に「保険会社が修繕費を支払う」と明記されており、修繕費の見積額を支払うとはなつていないことから明白であるのみでなく、わが国の船舶保険業界において一律に行われている慣行である。しかして本件糸崎丸の保険契約は右約款および慣行に基いて締結されたものであるから、同船の損傷に対する修繕工事が完了しない限り、日新火災海上保険株式会社は修繕費を支払うべき義務がない。しかるに被告人等は共謀の上右修繕費を騙取しようと企て、公訴事実記載の如く、糸崎丸の協定修繕工事三、四〇〇万円相当分中僅かに一、八〇〇万円相当の工事を施行したにすぎず、その余の工事を手抜したのに、これを全部完了したものの如く装い、その旨の虚構の事実を記載した工事落成書を同保険会社に提出して修繕費の支払を請求し、同社係員をその旨誤信させて、これを交付させたものであるから、被告人等の右所為はまさしく詐欺罪に該当すると主張し、これに対して

被告人等の弁護人は、船舶保険契約は船舶の損傷に対する填補として修繕費を支払うものであるところ、右修繕費とは当事者間で協定された修繕見積額を意味し、この故に普通約款第一九条第一項が特に「損害説明義務」の履行を被保険者に義務ずけているのである。

本件では日本保険料率算定会という権威ある第三者を加えて、糸崎丸の損傷を船渠において実地調査したうえ厳密詳細な工事計画に基いて修繕費を三、四〇〇万円と協定したのであるから、これにより右約款上の損害額の証明はなされ、糸崎丸の右損傷に対する填補額はこのとき右の協定額に確定したものというべく、保険会社は遅滞なくこれを支払うべき義務がある。わが国の保険業界において修繕工事の完了を停止条件として修繕費を支払う取扱いが仮に慣習となつているとしても、その慣習は法律上、約款上明文のない修繕義務を一方的に船主に課するのと同一の不利益を強制するものであるから何らの効力も有しない。従つて本件糸崎丸の修繕工事が如何なる程度に施工されたかは、日新火災海上保険株式会社の修繕費支払義務と何らの関係もない事柄であるから、仮に被告人等が右修繕費を受領する過程において、内容虚偽の工事落成書を提出してその受領を遂げたとしても、元来正当に支払を受け得る修繕費を取得したにすぎないので、その所為は何ら詐欺罪に該当しないと主張する。

第四当裁判所の判断

一  当裁判所の証人奥川猛、同坂井良雄、同妹尾正彦、同高橋利三郎、同吉田良雄、同横井進吉、同開戸啓、同田中二郎に対する各証人尋問調書、および千代田火災、安田火災海上、日本火災海上、東京火災、大東京火災海上、富士火災海上、日新火災海上、日産火災海上各保険株式会社作成の「海上保険における保険金給付についての回答書」と題する書面(八通)によると、わが国の海上保険業界において、船舶保険は、船舶保険普通約款(昭和七年日本海上保険協会が制定し、当時の商工省の認可を受けたもの)および第一種ないし第五種特別約款(右普通約款と同時に同協会が制定したもの)を基本約款として、その他保険の種別に応じた各種の特別約款を内容として締結されているが、被保険船舶が保険事故によつて損傷を被つた場合に関しては特別約款第四種、第五種の各第一条第一項第三号において、保険会社が修繕費を支払うべきことを規定し、普通約款第一三条第二号において修繕費の定義を掲げ、同第一九条において保険金支払の手続を定めているほかは、何らの規定も設けていないところ、この場合における実務の取扱としては

(一)  保険会社と保険契約者たる船主が損傷を修繕する造船所を協定したうえ、当該船舶の損傷を実地に調査して、これに対する修繕工事計画書(修繕工事仕様書ともいう)を作成して所要の修繕費を算出し、これを双方が持寄つて検討し、種々交渉して修繕費を具体的な金額で協定する。その際、修繕費の金額が二〇〇万円以上にのぼる場合は、関係保険会社の共同出資により設立運営されている日本保険料率算定会所属の専門技師の参加を求め、同算定会の技師の中正な意見をも参酌して算定した金額を基準として修繕費を協定している。

そのうえで船主は第三者たる造船所との間に当該損傷に対する修繕工事契約を、前記協定に係る修繕費に見合つた金額で締結してこれに修繕工事を施行させ、その工事の完了を俟つて船主から保険会社に対し、協定の通り修繕工事が完了した旨を具申した工事落成書を添えて修繕費の支払を請求し、特別の事情のない限り支払請求の日より三〇日以内に修繕費が交付されている。

(二)  無修繕のままの損傷に対して保険金が支払われるのは、無修繕の状態で保険契約が終了する場合に限られる。例えば無修繕のまま保険期間が満了し契約が更新されない場合、同様の状態で船舶を売船あるいは廃船する場合等であるが、かかる場合には修繕を前提とする前記(一)の取扱とは異なり、損傷の前と後における当該船舶の売買価額の減少額を評価し、これに損傷を復旧するとすれば要するであろう修繕費の見積額をも加味して、双方が当該損傷による被保険船舶の滅価額(修繕費より相当に低額である)を話合のうえ協定してこれを右損傷に対する保険金として支払つている

ことが認められ、以上の取扱はいずれもイギリスにおけるそれに倣つたもので、これと異なる取扱例は見当らないので、わが国の船舶保険では損傷に対する修復工事が完了するのを停止条件として協定した修繕費を支払うのが慣行となつているということができる。

二  以上の如きわが国の船舶保険を制度上からみると

(一)  いわゆる評価済保険方式(商法第八一八条)を採用し、契約の当初当事者双方が協定した当該被保険船舶の評価額をもつて保険期間を通ずる不変の保険価額とし、保険会社は右保険価額を限度として約定の損害を填補する(この点で火災保険等の未評価保険と異なる)と共に

(二)  当該保険期間中に発生した約定の分損損害に対しては回数の如何を問わず、その都度保険価額を限度としてこれを填補することとしている(船舶保険普通約款第一七条。イギリス海上保険法第七七条第一項と同趣旨。この点で火災保険普通約款第二三条所定の残存保険金額の方式と異なる)。

三  右(一)(二)の方式を併用する保険方式(以下便宜上、これを評価済保険価額継続の方式と指称する)は、船舶保険の契約方式として最も進歩的なものと考えられるがこれを採用しているわが国の船舶保険業界において、損傷の修復を停止条件として修繕費を支払い、且つ無修繕の場合は修繕費より低額な保険金を支払つている前記慣行に対し、その可否をめぐつて賛否両論が対立している。

(1)  右の取扱を、そのまま肯定する見解は、その理由として

(イ) 船舶保険普通約款第一七条は、保険期間中に生じた被保険船舶の分損を、その都度修復してその正態価額(sound vaiue)を維持する旨を明らかにしているから、これを受けた特別約款第四種第五種の各第一条第三号に「保険会社は……修繕費を支払う」とあるのは、船主が現実に当該分損を修復することを停止条件としてこれを支払う趣旨と解すべきである(当裁判所の鑑定人宮武和雄、同三田次郎に対する各尋問調書。今村有著「海上損害論」四五頁)

(ロ) 実際的にも、当初の実地調査の際には構造上内部に隠れて判明しなかつた損傷が、修繕工事の進捗途中で発見されたり、あるいは修繕期間中に、材料費、労賃等が予測に反して変動を生ずる場合があり、これがため当初協定した修繕費のみでは、実質的に損傷の完全な填補とならない場合が生ずるので、修繕工事の完了を俟ち、船主に対して損傷が完全に修旧した旨の証明をさせて、それに見合う修繕費を支払うのが最も確実な損害填補の方法である(今村有著、前同五〇頁)

(ハ) 無修繕の損傷に対しては何を基準として損害額を算定するかにつき法律上、約款上何ら規定していないので、保険の原則に従い損傷がないとすれば当該被保険船舶の価額はどうか、また損傷を被つたままの状態における船価はどうであるかをそれぞれ評価して、その差額たる減価額を損害としてこれに見合う保険金を支払うのである。右減価額の算定にあたつて、損傷を修復するとすれば必要であろうと考えられる修繕費の見積金額も斟酌されるが、それが算定の基準とはなり得ない(当裁判所の鑑定人宮武和雄、同三田次郎に対する各尋問調書。テンブルマン、グリーンエーカー共著「(イギリス)海上保険法」一八一頁)

(ニ) 結果的にも、この取扱は船主に対して被保険船舶の損傷修復を完全に行わせることになつて船主の利益と合致するばかりでなく、船舶の堪航能力を保持する点で国家の海運政策にも適合する。フランス(同国船舶普通約款第二三条第一項)、イギリス(同国海上保険法第六九条)、ドイツ(同国海上保険普通約款第七五条第一項ないし第七項)等の西欧諸外国における立法例ないし実務慣行もわが国における右取扱と大略一致しており、これは右取扱が船舶保険の目的に照し普遍的妥当性および合理性を具有していることを実証するものである(当裁判所の鑑定人三田次郎に対する尋問調書。今村有著、前同四五頁)

等の諸点を挙げて右取扱を是認する。

(2)  これに対して右取扱を不当として反対する見解は、その理由として

(イ) 船舶保険の本質は、当該船舶が保険事故によつて被つた価値減少を填補するものであるから、船舶保険普通約款第一三条第一項第二号および特別約款第四種、第五種の各第一条第一項第三号所定の修繕費とは、右価値減少を評価する一方法としてその修繕に要する費用をもつて損害額と解し、これに見合う金額を修繕費という名目の保険金として支払う旨を規定したものと解すべきである。従つて当該損傷が現実に修復したか否かは修繕費の算定および支払義務とは別個の事柄であつて、その修復の有無によつて修繕費名目の支払保険金額に差異を生ずることはあり得ない。

(ロ) 右修繕費は、保険会社と被保険者たる船主とが、場合によつては損害保険料率算定会の技師を加え更に造船会社の技師など専門的な知識、経験を有する者等を立会わせて損傷を実地に調査し、その修繕のために必要であると考えられる費用を査定し、双方が話し合いのうえその金額を協定すればこれをもつて確定するというべきである。従つて船主は、その後であれば修繕工事の如何に関係なく、右金員の支払を請求でき、その請求があれば船舶保険普通約款第一九条に則り、保険会社は原則として三〇日以内にこれを支払うべき義務がある(以上鑑定人大森忠夫作成の鑑定書)

(ハ) フランス、イギリス、ドイツ等西欧諸外国では無修繕の場合を如何に取扱うかにつき、それぞれ法律上または約款上詳細な明文の規定を設けている。しかるに右諸国と異なり何ら成文の規定をおいていないわが国において、無修繕の場合に、協定に係る修繕費以下の低額な保険金しか支払わない右取扱は、船舶保険の利用者である船主に対して明かに理由なき一方的な不利益を強制しているものといわざる得ない(以上当裁判所の鑑定人加藤由作に対する尋問調書。鑑定人加藤由作、同朝川伸夫作成の各鑑定書)

(ニ) 船舶に堪航能力を保持させるのは、監督官庁の取締に俟つべきであり、かかる行政目的に合致するからといつて、右取扱が合理的であるというのは必らずしも正当でない(以上当裁判所の鑑定人椎名幾三郎に対する尋問調書)また無修繕の場合における損害の算定基準を船舶の売買価額の減少におくことは、それが偶然的投機的要素を含むものであることから不当であるばかりでなく、船舶保険契約の基本事項である評価済保険価額を全く無視する点でも正当といえない(今村有著、前同四八頁)

等の諸点を挙げて実務上の取扱に不備不当な面があると批判している。

四  しかしながら前記賛成論は、船舶保険の特殊性、なかんずく実務が採用している評価済保険価額継続の方式に重点をおいて実務の取扱を是認するものであるのに対し、反対説は実務の取扱を保険の原則論から批判してそれにもとる点のあることを鋭く指摘するものであつて、両説の間に議論の対象が合致していない憾のあることを否めないところで、実務の取扱において修繕した場合と無修繕の場合とで填補する保険金の額が異なる点については、被保険船舶が被むつた損害を金銭に評価する方法として、修繕費を基準とする方法以外に考えられないわけではなく、無修繕の場合に損傷による当該船舶の交換価額そのものの減価額を算定してこれを填補する方法を採用することは、それだけについてみると保険の原則に何ら違反するものでないことが明らかであるが、他面この場合について特段の定を設けていないわが国においては、保険契約者たる船主から支払う一定額の保険料に見合う反対給付としての同一損害に対する填補金額が、当該損害とは別個の修繕工事の有無によつて相違することは保険の原則から大きくかけ離れるものであつて、無修繕の場合には船主に対して、修繕した場合との差額相当の不利益を与える結果となるから、附合契約における顧客の利益を保護すべき法原則からして仮に前記の如き慣行が契約当事者間において約定の内容とされたとしても、かかる合意を有効視することは甚だ疑問であるといわざるを得ない。

五  次に修繕費の支払時期の点については、船舶保険がいわゆる財産保険でなく物保険であると解されていること、船舶普通約款第一三条第一項第二号、特別約款第四種、第五種の各第一条第一項第三号と船舶保険特別約款の一種たる修繕費保険特別約款第四条等との各条文の差異、および実務上前記認定の手続によつて、当事者間で厳密に修繕費を査定して、これを協定していること等に徴すると、右特別約款第四種、第五種の各第一条にいわゆる修繕費とは、損傷修復のため現実に支払われた金額を基準とするものでなく、損傷復旧のため必要であると考えられる費用の適正な査定額を意味するものと解するのが相当である。そうだとすると前記手続によつて当事者間に修繕費の協定が成立すれば、これにより保険会社の支払義務は確定し、履行さるべき状態に置かれると解すべきであつて、損傷復旧の完了をもつて、修繕費支払の停止条件とする実質的な根拠は見出し難い。しかるに実務の取扱が損傷の復旧を停止条件として修繕費を支払い、且つ西欧諸外国の取扱例もこれと同様であるのは評価済保険価額継続の方式を確実に維持するための一便法としてこの手続を採用しているものとしか考えられない。すなわち右方式は船舶の正態価額(sound vaiue)を維持継続させるものであるところ、船主が何らかの事由により被保険船舶に生じた損傷を修復しない場合には損傷の部位、程度の如何により当然に当該船舶の正態価額に変動を生ずるから、損傷を修復することが、右方式による保険契約を存続させる条件となつているものというべく、このため損傷の復旧を確実に履行させ、契約を存続させる手続上の便法として右取扱が採用されているものと考えるべきである。

してみると、修繕費支払請求書に工事落成書を添付する実務の慣行は、修繕完了によつて当該被保険船舶が従来通りの正態価額を回復し、保険契約を従前の評価済保険価額をもつてそのまま継続するための資料を提供する行為にすぎないと考えられるから、右工事落成書に修繕未完了の部分を恰も完了した如く虚偽の記載をして、これを保険会社に提出する行為は、将来における保険金二重騙取の予備的行為と認めうる場合があるのは格別、過去に生じた損傷に対する填補としての修繕費支払義務には何らの影響も及ぼすものでないというべきである。

六  以上の次第で、被保険船舶の保険事故による損傷を現実に修復した場合に限り、約款所定の修繕費を支払うことが、わが国における船舶保険業界の慣行であると認められ、未だ反証のない本件では、福本商船株式会社対日新火災海上保険株式会社間の糸崎丸に対する前記保険契約において、右慣行に従う旨の合意が存在したものと推認されるのであるが、右慣行は西欧諸外国の取扱例に倣つたもので、実際上船主に対して被保険船舶の損傷修復を励行させ、最も進歩的なものと考えられる評価済保険価額継続の保険方式を持続することに重要な役割を果すものであつて、それだけについてみると、普遍的な合理性を具有していることが明らかであるが、他面無修繕の場合について、右諸外国とは異なり何らの成文の定めを設けていないわが国において、修繕した場合に比較してより低額な保険金しか支払わない右取扱は保険の原則に照らして到底肯認し難いもので、附合契約の一種たる船舶保険の利用者側に対し一方的な不利益を強制するものであるとの批判を免れない。彼我較量すると、仮りに被告人等が共謀のうえ日新火災海上保険株式会社に対し、糸崎丸の前記損傷に関する修復工事が未だ完了していないのに、これが完了した旨の虚偽の事実を告知して協定済の前記修繕費を受領したとしても、既に確定した損傷填補額を慣行に反して一部未修理のまま請求受領したに止まり、右所為をもつて詐欺罪に問擬する程の違法性を具有しないと解するのが相当である。

よつて被告人等に対する前記公訴事実は爾余の点について審理しなくても、罪とならないものであることが明らかであるから、刑事訴訟法第三三六条に則り主文のとおり判決する。

(裁判官 赤木薫 大北泉 滝口功)

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